学生に薦める本 2023年版
越智 敏夫
精神とは何か。小さい頃、会ったこともない遠い親戚が書いたという『キェルケゴール雑感』という薄い本が送られてきた。変な名前のおっさんやなあ、と思いながら読んだけれど、まったく理解できなかった。というより「ややこしいものには近づかんとこ」というガキ的な忌避感をこちらに発生させたのかもしれない。ただこれ以降、キェルケゴール(1813-55)の名前は自分のなかにずっと残り、かなりあとになってデンマーク人であることとか、ややこしい育ち方、親兄弟姉妹の死に方、27歳のときに17歳の女と結婚しようとしたというロリコン的な部分とか、知ることになった。
で、変な人やなあと思いつつも、けっこうおもろい人でもあることにも気づく。彼は神学や哲学をまじめに研究し、ちまちまと執筆しているつもりだったのに、突如、コペンハーゲンの大衆雑誌から「まじめぶって、何やってはるの? ああ恥ずかし」とバカにされはじめる。このあたりは現代のネット社会で嘲笑される(まともだと思われる類の)知識人や社会福祉活動家に近いのかもしれない。そりゃあ本人も依怙地になるよなあ。こうして大衆にも絶望しつつ、その大衆に媚びている(ように彼には見えた)デンマーク国教会もゴミカスと罵倒しはじめる。
そんな不器用なやりかたで孤高ということを体現しているうち、その国教会への怒りの抗議活動の真っ最中、路上で突然死するという、ほとんどあんたはニーチェ(1844-1900)か、という人生である。でもまじめに書いても「実存レース」においてニーチェの前を走っていたというのも通説かもしれない。
のちのサルトル(1905-1980)でなくとも実存について考えるとき、通常は近代思想の根本にある(ように見える)理性を中心として考えることが一般的なような気がする。しかしキェルケゴールは実存とは「不安と絶望」であるいい、これはこれでとても救われる世界観を提示しているようでもある。
今となっては彼の名前を最初に知ったときの「ややこしいもんには近づかんとこ」という本能的な忌避感は、大きくはまちがってなかった気もする。その忌避という感覚は精神の健全さとはいえないまでも、「心をこじらす」ということは誰にでもあることで本人に責任はないとけっこう小さいころから考えていたのは、さほど悪いことではなかったのだろう。「誰でも心くらいこじらすやろ。盲腸炎になった奴にその責を問うかぁ」と、高校のころから僕は友人たちに繰り返していた。その点では変な本を送ってきた遠い親戚に感謝すべきなのかもしれない。
ということで、「精神=生きてるだけでまるもうけ」だと僕は思っているんですが、そのあたりをめぐる5冊。
『自殺されちゃった僕』
- 吉永嘉明 幻冬舎アウトロー文庫 2008年(単行本:2004年)
友人だったマンガ家のねこぢる(1967-1998)、先輩の鬼畜系ムック編集者の青山正明(1960-2001)、そしてペヨトル工房の編集者だった最愛の妻と、まわりの大切な人たちが次々に自死した経験を描いた書。著者ご本人もこの本を刊行したあと、失踪したままだそうです。
本文の内容はともかく、なんといっても精神科医の春日武彦(1951-)が書いている文庫版解説がすごい。そのなかで著者の吉永が編集者として刊行した鬼畜系ムック『危ない1号』についての春日による記述の一部が以下。
クズみたいな本だと思った。志が低く、屈折した思い上がりが充満し、反社会的であることを自由や純粋さと履き違えているようなゴミ雑誌であった。プライドばかりが高く、しかし才能は乏しく、責任転嫁の得意な薄汚い若者の苛立ちに迎合するような安っぽい雑誌であると思った。おぞましいことこの上ない。洒落にもならないチープ感と虚勢とが、下卑たオーラとなって頁のあいだから悪臭のように漂い出てくるかの如きであった。
また春日はこの雑誌にかかわる者たちについて、「所詮、澁澤龍彦を読むことで自分の精神が高貴であると自分に言い聞かせているようなレベルであろう」と断じ、「サラリーマンを、その画一的なスーツ姿ゆえに内面もまた唾棄に値すると決めつけるような類の底の浅い精神性しか持ち合わせて」ない輩だとする。
春日って、毀誉褒貶ありそうだけれど、この指摘は120パーセント正しい。他の部分も含めてこの解説は必読。いろいろ悩むことや、悩んだふりをしないといけないことが多い大学生の皆さんがこの本の本文と解説をどう読むか、ちょっと不安もあるけれど、この春日の批判的精神は忘れないほうが良いと思う。これは本心です。
実は本書の登場人物のなかに、自分の人生のある時期、日常的に会っていた方も複数いらっしゃいます。また『危ない1号』は僕が本学に赴任したころ、関屋駅の近くの本屋で買ってけっこう(不)まじめに読んでいたムックです。今も学長室のどっかにあるはずです。そういうことを考えると、「精神=生きてるだけでまるもうけ」と唱えたくなるのもわかるでしょ。わかりませんか。
『奇想版 精神医学事典』
- 春日武彦 河出文庫 2021年(単行本:2017年)
『狂気の歴史:古典主義時代における(新装版)』
- ミシェル・フーコー 新潮社 2020年(原著:1961年)
『僕の樹には誰もいない』
- 松村雄策 河出書房新社 2022年
自分の精神史ということを考えると、政治学やまあそれに近い分野のものももちろん大事である。しかし正直なところを言うと、ロックと映画とプロレスと演劇と小説、それらがなかったら、自分はここまで生きてこられただろうかと思う。そして考えてみればそれらの領域のかなり重要な部分を松村さんの文章から教わったような気もする。さらにはそれらについて書かれた松村さんの文章に触れるうちに、もっと大事な、まさに精神的なことまで教えてもらったことに気づく。どうもありがとうございました。
本欄でも2004年に松村さんの『悲しい生活』を紹介している。そこでも書いているけれど、かつて後楽園ホールで頻繁にプロレスを見ていたころ、ロビーで煙草を吸われるご本人を幾度も見た。本学にも講演に来てほしいなあと思っているうちに、松村さんは2022年3月にご病気で他界されてしまった。お元気なうちに企画を起こさなかった自らを恥じるのみである。愚とはこのようなことを言う。
人間にとって不安のあまり絶望することは嫌なことでしょう、でも世界は不完全だし、そのなかで生きる人間は不安を感じて当然だし、それが人間の心の大事な働きなので、絶望するからこそ生きていけるんです、心配しなくていいいですよ、そのうち良いことあります……と言われたら、ふつうは「ありがとうございました」って言うでしょ。そういう本です。神と信仰に関する部分は省略したけど。
各種の翻訳が各社から出ております。キェルケゴールは日本でもかなり早い時期から人気があったけれど、ずっとドイツ語版からの重訳しかなかった(と思う)。そういうなかで本書を訳すためにデンマーク語を習得したのが愛媛県大洲市生まれの桝田啓三郎(1904-1990)。三木清(1897-1945)の弟子だった桝田の訳業によって日本のキェルケゴール研究は飛躍的に進展し、かなり長いあいだ彼の翻訳が決定版として語られてきた(と思う)。現在はちくま学芸文庫に収録されています。
しかし哲学に対する人間の業(ごう)はとどまるところを知らず、この2017年刊行の鈴木祐丞訳もデンマーク語版からの翻訳で、現在のキェルケゴール研究の世界水準を示すその解説とともにすばらしい。こうやって人類の知的作業は継続していくんですね。そういうところもキェルケゴール的(が何かは各自考えるように)で好き。