学生に薦める本 2007年版

池田 嘉郎

文学から三冊、選んだ。内訳は、私の専門である西洋史から一冊、ロシアから一冊、それに単に好きだということで一冊、である。

『ディケンズ短編集』

ディケンズ(小池滋・石塚裕子訳) 岩波文庫 1986年
 よく明治人の精神云々というが、明治時代をつくったのは江戸人である。同じく20世紀世界ともいうが、20世紀を率いたのは19世紀人である。その19世紀、進歩と科学のイギリスを代表する小説家といえばディケンズであるが、彼の作品の根底には19世紀文明とは一切無縁の迷信や言い伝え、はては因果といったどろどろの世界が横たわっている。ここに挙げた短編集は怪奇的なものばかりを集めているので、ディケンズの底のほうにある暗くて不思議な世界を覗き込むことができる。迫力で群を抜くのは「信号手」だが、のんびりした「子守り女の話」も素晴らしい。なお、本館所蔵のG・オーウェル評論集『鯨の腹のなかで』に入っているディケンズ論は、作家の強さと弱さ、そして弱さの中の強さを教えてくれる名品である。
[OPAC]

『スペードの女王・ベールキン物語』

プーシキン(神西清訳) 岩波文庫 2005年
 イワン雷帝からプーチンまで、ロシア史はヒーローにはことかかない。数あるその英雄たちが束になっても敵わないのが、プーシキンである。プーシキンが好きだといって喜ばないロシア人はいない。所領が狭く、首都を追放され、妻も言い寄られ、と色々苦労しているのだが、その筆致はとにかく軽い。「スペードの女王」は賭と野心の話、「ベールキン物語」は完璧に決まったコント集である。いつも一番新しく、常に懐かしい。風と光のプーシキンの世界を、神西清の名訳で楽しんでほしい。
[OPAC]

『焼跡のイエス・善財』

石川淳 講談社文芸文庫 2006年
石川淳。その名を聞いただけで、嬉しくなり、身がひきしまる。そのような人がわたしにはもうひとりいて、それはフェリーニである。二人ともわたしの二〇世紀の大巨人だ。石川淳の作品集では、佐々木基一が編んだ新潮文庫の『焼跡のイエス・処女懐胎』が一番よい。モスクワにいた頃、ずっとこれを読んでいた。悲しいことにこの本は絶版のようだが、講談社文芸文庫が新しい作品集を出してくれた。戦前の緊張感溢れる「山桜」、「マルスの歌」、戦後の新地平開ける「かよい小町」、「処女懐胎」。これに同じ講談社文芸文庫の『普賢・佳人』を併せれば、石川淳の何がどうジャイアントなのかが分かる。
[OPAC]