学生に薦める本 2024年版

澤口 晋一

少し長い前置き


 なんと,2021年を最後にこのコーナー「学生に薦める本」に寄稿していなかったではないか!いったいどうして?と自分に問いかけたくなってしまうよ.それだけ忙しく余裕がなかったのだろう.
 今回は,2022年後期の異文化塾(中央キャンパスのオープンカレッジという一般社会人講座)のテーマでもあった「旅・冒険・探検,未知との出会い」に関連した書籍を取り上げることにします.この時の異文化塾では,私がコーディネート役を務める形で,日本を代表する旅・冒険・探検の達人の方々1)に講演頂いたのですが,その第1回目はコーディネータ役の私が話さなければなりませんでした.
 冒険家でも探検家でもない私が,前座ではあるにせよ,本当のプロを目の前にして何を語れるのか,冗談でしょ!みたいな感じではあったのですが,実は私には北極探検という大いなるロマンを,いつか話してみたいという気持ちがあり,この機会にそれを百戦錬磨の強者と相伍してやってみようと思った(無謀!)ことが,そもそも「旅・冒険・探検,未知との出会い」というテーマを掲げた理由でもあったのです.
 さて紹介の前に,北極探検の航海路について一つ基礎的なことを説明しておきます.世界(東洋)への海洋進出にスペインやポルトガルから遅れをとったイギリスを始めとするヨーロッパの国々は,この両国(スペイン,ポルトガル)が結んだトルデシリャス条約によって大西洋の南下を阻まれてしまいます.そこでやむなく考え出されたのが,北極海を経由してベーリング海峡から太平洋に到達しようというルートでした.
 それには,ユーラシア大陸側の沿海をひたすら東に進むルートとグリーンランドの南端を通過してデービス海峡を北上し,エルズミア島・デボン島など世界最北の島々の間を抜けて,アラスカの北岸に達しようとする2つのルートがあります.前者を「北東航路」,後者を「北西航路」と呼びます.特に北西航路はこの当時ほとんど未知の海域でした.しかも冬は軽く氷点下40℃を下回る北極です.海は完全に結氷し,船の航行は不可能になる.夏にも氷は溶け切らない.船の航行速度も遅い当時となれば当然,夏の間に難所を抜けきれずに冬を迎え,現地(多くは船上)で越冬を余儀なくされる.さらに海氷に閉じ込められた船は氷の圧力によってメリメリバリバリと破壊されてしまうことも普通に起こってしまう.どう考えたって無理!不可能!としか思えない.まちがいなく地球上で最も過酷な航路なのです.にも関わらず当時のイギリスは国の威信にかけてこの未知のルートの制覇を諦めません.そしてその一つ一つの航海が探険史に刻まれるものになっていきます.
 そうした探検史の一つのピークとも言うべき最大の出来事が1845~1846年のフランクリン隊の遭難(乗組員129人全員死亡)です.こう書くと,えっ,成功をもってピークとはしないの?と言われそうですが,実はそうでもないのです.むしろ成功より失敗の方により大きな物語性がある.失敗の美学ともいうべきものがあるのですよ.そしてこれがまたどういう訳か,イギリス(人)の探検(や登山)は必ずといっていいほど,失敗に失敗を重ねるのです.裏を返せばそのほとんどが困難なパイオニアワークだからということもあるのですが,そこには私たちの想像をはるかに超えた人と自然とが織りなす壮絶なドラマが展開するわけですね.北西航路はもとより,南極点を目指したスコット隊,ヒラリーのエヴェレスト登頂までの英国山学会(The Alpine Club)の長い道のり等々にはそうした闘いが如実に示されており,人という生き物の宿命や不思議さに思い至らずにはいられなくなる.そういうところに北極好き探検好きの私なんかは完全にはまってしまうわけです.
 もちろん,成功物語の面白さも失敗に全く劣るものではありません.むしろ失敗にはない深さが成功の裏には必ずあります.また成功は失敗の上に成り立っているとも言えます.
 さて,前書きはこの辺にしておいて,以下では最初にノルウェーの探検家ナンセンによる北極海の漂流記を紹介します.ついで北西航路に関わる探検記2冊.さらに,一転して南極に関する探検記を2冊,そしてそれぞれに付随する書籍を数冊紹介します.また,南極に関わる音楽(CD)もひとつ取り上げます.最後に極地にかけた探検家について扱った書籍2冊を紹介します.

1)高野孝子,石田ゆうすけ,関野吉晴の三氏.

『極北 : フラム号北極漂流記』

フリッチョフ・ナンセン 中央公論新社 2002

『フラム号北極海横断記 : 北の果て』

フリッチョフ・ナンセン ニュートンプレス 1998
 1892(明治25)年11月,ナンセンはロンドンの王立地理学協会で講演を行い,以下のようなことを述べている.「私は遭難したジャネット号の遺品の数々がグリーンランドの北西海岸で発見され,それらが流氷に乗って北氷洋を横断したものであろうと推察されたことを知り,ここにその手がかりを得たのである.(中略)またグリーンランド東海岸に打ち寄せる流木の多くが,シベリア原生の植物であることや流氷と一緒に流れてくる泥土がシベリアのそれと同一のものであることなどから,自分(ナンセン)は北極とフランツヨーゼフ群島との間のある場所ではシベリア北氷洋岸からグリーンランド東海岸へ流れる海流のあることを結論しえた・・・」.
 ナンセンはこれを実証し,かつ北極点への到達を試みることを目的に1893年6月24日ナンセン隊長以下12人を乗せた「フラム号」はオスロ港を出航する.しばらくソ連沿岸の解氷域を東進するが9月18日に進路を北に変えるとその2日後,北緯78度付近でついに結氷域に到達する.エンジン(補助的なごく小さいもの)も帆も取り外されたフラム号は12人の乗組員を乗せ,ここから海氷の流れに任せての漂流が始まる.しかし,思ったよりも海流の流れが遅く,このままだとフラム号での北極点到達は難しいとみたナンセンはヨハンセンという隊員二人とソリ2台それに28頭の犬を連れて,極めて周到な準備のもと北極点を徒歩で目指すという行動に出たのであった.
 なお,この探検の目的は,漂流によって未知の海域を横断し科学的な調査を行うことであり,決して北極点到達ではないということをナンセンは何度も強調している.調査内容はここで紹介した中公文庫には記述されていないが,後掲する太田昌秀訳(1998)には詳細な記録が掲載されている.
 この2人とフラム号がこの先どうなったのかは,本を読んでもらうことにして,最後に「フラム号」という名前の帆船について少し説明しておきたい.この船はナンセン自らの設計によるもので,重量402トン,全長39mの木造船である.海氷上で氷の強力な圧力を受けるとその船体が氷の上に押し上げられるという独創的な構造を有したものである.実際この設計によって3年の間氷に閉じ込められてもビクともせずにノルウェーに帰還する.
 後述するアムンセンは,この船をナンセンから譲りうけ,南極点へと向かうのである.アムンセンがもし別な船を使って南極を目指していたら,南極点一番乗りの行方はまた別のものになっていた可能性もある.
 現在,フラム号はオスロ近郊のフラム号博物館で保存されている.私はここを3度訪れて実際にフラム号に触り,中に入りつぶさに観察している.現代の感覚からすると,こんな小さな船なのか!と驚くしかないのだが,その素晴らしく機能的なつくりには感嘆するしかない.それにしても隊員用のベッドの小さいことといったら!北欧の巨人ともいわれるノルウェーの強者がどうやって寝ていたのだろう,今もって不思議.
 もしかすると,ノルウェーの建造物で最も有名なものがこのフラム号だと言っていいかもしれない.
 なお,ここでは加納一郎訳の文庫本を挙げたが,太田昌秀氏によってノルウェー語から直接日本語に訳された完訳大型本も出版されている.すでに絶版となっており入手が難しいのだが,一応以下に記しておく.
・フリッチョフ・ナンセン著,太田昌秀訳(1998)『フラム号北極海横断記―北の果て―』ニュートンプレス,418ページ.
[OPAC]
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『極北の迷宮 : 北極探検とヴィクトリア朝文化』

谷田博幸 名古屋大学出版会 2000
 本書以外はすべて,北極・南極とも探検者本人による著作の紹介なのだが,フランクリン隊の北西航路探検については,谷田氏の著作を紹介したい.本書の「はじめに」で著者は以下のように記している.「これまでも,極地探険史やフランクリン隊の運命に関する著述は,(中略)決して少なくはない.しかし,不思議なことに,これまでフランクリン遠征隊の失踪とそれに続く捜索事業が,探検史といった狭い枠組みを超えて,ヴィクトリア朝の文化や社会の中でいかなる意味を有していたかについて言及した著作を殆ど見ないのである」.私自身,関心は探検記そのものにあり,その時代の文化や社会状況に探検を重ねてみるということは全く考えたこともなかった.本書は,探検という行為とヴィクトリア王朝という英国絶頂期の空気感とを重ね合わせることで,これまで見えてこなかった探検に対する英国民の期待感や失望感といったものが浮かび上がってきたという点で,これまでの探検記と完全に一線を画するものとなっている.
 一方で,探検に関する記述が手薄かというと,決してそんなことはなく,フランクリン隊の遭難という一国を揺るがす大事件とその捜索隊の派遣を中心に添えながら英国の北極探検史全般についても過不足なく取りあげている.北極探検史上の最大の出来事(ペーリーの北極点到達やアムンセンの北西航路横断よりもむしろ後世に及ぼすインパクトが大きい2),3))でありながら.フランクリン探検隊そのものに関する日本語訳の書物は出版されていないこともあって,半ば諦めかけていた時に偶然,谷田氏のこの著作を見つけ,最初は期待せずに読んだのであるが,すぐにこれが優れた書であることがわかり,一気に読み終えた.いずれ,このような本が日本人の手によって書かれたというのは驚くべきことだと思う.
 北極あるいはヴィクトリア王朝というワードに反応する人以外は手にすることのない本だとは思うが,英国の歴史に関心がある人であれば読み進むことは十分に可能である.いずれ,この1冊で英国の未知という領域に対する関心の強さとその根源が何であったのかが理解できるという点においても,たいへん貴重な書だといえる.

 2)1986年9月26日の『タイムズ』紙は,アルバータ大学の人類学者・オーウェン ピーティー等によってフランクリン隊3人の墓が発掘されたことを一面で報じるとともに,遺体から高レベルの鉛が検出されたことで,死因として鉛中毒の可能性が浮上し,さらにその鉛は缶詰の接合に用いられたハンダであることが明らかになった.140年たってなお英国ではこの遭難の関心が失われていないことを示している.これは以下の書籍で読むことができる(日本語訳は未完).140年前の凍結遺体が無傷で発掘され,その写真も多く掲載されている.
・Owen Beattie and John Geiger(1987)Frozen in Time -The Fate of the Franklin Expedition-.BLOOMSBURY,278p.

 3)さらに, NATIONAL GEOGRAPHIC(2019年9月号)には,キングウィリアム島沖の海底から沈没したテラー号とエリバス号の2隻が発見されたという大ニュースが掲載されている.この近辺で消息を絶ったことは以前から知られていたこともあり,その捜索が現代まで続いていたということである.
 フランクリン隊の遭難という悲劇はまだ終わっていないのである!
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『探検家アムンゼンのユア号航海記』

ロアルド・アムンゼン フジ出版社 1982

『ユア号航海記 : 北極西廻り航路を求めて』

ロアルド・アムンゼン 中央公論新社 2002
 アムンセンと言えば,まずは何といっても1912(明治45)年に南極点到達という人類史上に燦然と輝く偉業を成し遂げたことで知られた探検家である.名前を聴いたことがあるという人も多いのではないかと思う.南極点到達があまりに有名になりすぎてしまってアムンセンといえば南極点,アムンセンは南極の探検家という図式で語られることも多い.
 しかし実は,アムンセンは南極点到達に先立つ1905年,前置きで述べた「北西航路」横断を世界で最初に完遂した人物でもある!イギリスがフランクリン隊を始め,200年以上にもわたって多くの犠牲を出しながらついぞ成し遂げられなかったあの北西航路.この時の航海を自身でまとめたのがユア号航海記である.原著版は1908年にロンドンで出版されている.紹介するのはそれから74年の時を経て日本で出版された完訳版である.
 アムンセンは自身を含めたった7人の乗組員によって,フランクリン隊とは比べ物にならないほどに小さな船(47トン!)で,しかもアムンセン個人としてその偉業をやり遂げたのである.
 航海には1903~1905年の3年(越冬2回)を費やすが,航海記にはその間の北極の過酷極まる自然の中で起こる幾多の困難をも乗り越えて,必死に生きる様が詳細に描かれている.それを読むだけでも身体が熱くなるのだが,この書物がただの探検記にとどまらない魅力を放つのは,先々でのエスキモーとの交流がアムンセンの鋭くも暖かい観察を通じて細かく描かれていることである.全体の2/3はエスキモーと隊員たちとの間に交わされた様々な出来事の記述に費やされていると言って過言ではない.そこには現代文明に翻弄される以前のエスキモーの姿が活き活きと描写されている.アムンセンの観察眼とそれを表現する力にはただ舌を巻くしかない.この航海記はその点でまさにエスキモーに関する第一級の民族誌でもある.
 本書には,原著に掲載された写真139点のうち130点が掲載されているほか,この航海を実行するにあたっての資金とその提供者,物資援助に関する詳細な資料も割愛されることなく掲載されているなど,資料価値も高い.
 さて,最後に忘れてならないことを一つ.アムンセン隊が北西航路を完遂できた最大の理由は何だったのか.それは北極の地で生き抜く知恵をエスキモーたちから,彼らは様々に教えられ,そして受け入れ,自分たちのものとしたことである.イギリス人はこれができなかった.
 本書には2002年に刊行された(訳者同じ)文庫本がある.文庫の性格上,写真や図はほとんど省略されているが,文章はほぼそのままである.なお,本書の解説は,最初に触れた異文化塾の講師を務めた高野孝子氏が執筆している.これがまたご自身の体験も踏まえたもので,たいへん秀逸である.
・『ユア号航海記―北極西廻り航路を求めて―』中公文庫,410ページ.
[OPAC]
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『南極点』

ローアル・アムンセン 朝日新聞社 1994

『南極大陸に立つ : 私の南極探検記』

白瀬矗 毎日ワンズ 2011
 本書はユア号航海記と同様,アムンセン自らの手による探検記で,原著は1912年にオスロで出版されている.ユア号航海記からたった4年である.
 さて,アムンセン以下19人の隊員・乗組員を乗せたフラム号が最終目的地の北極点に向けてノルウェーのオスロをあとにしたのは,1910年8月であった.そしてなんとその2ヵ月前には,スコット隊長率いるテラノバ号一行25人が人類初の南極点を目指してイギリスのロンドンを出航していた.
 ところが,北極点に向けて出航したはずのフラム号の船首は北ではなくて南を向いていたのである.実はその前年1909年9月にアメリカのピアリーが北極点に到達したというニュースが世界を駆け巡っていた.アムンセンのショックの大きさを物語るように,第1章は以下のような記述から始まる.「北極点到達は果たされた.」(中略)その瞬間に私は,フラム号第三次探検の当初の計画(中略)は宙に浮いたことを明確に悟った.(中略)回れ右をして南に向かうのだ.」
 アムンセンは躊躇なく目標を南極点に切り替えた.乗組員や関係者に対しては,当初から喜望峰を回って太平洋を北上し,ベーリング海峡から北極点に向かうと説明していたことから,南に向いた船首に対して疑問を持つものは誰もいなかった.アムンセンが,目的地は北極点ではなく南極点であることを最初に隊員に告げたのは最初の寄港地(マディラ島)で,それを初めて聞いた隊員は驚いた様子であったが,全員が圧倒的に支持したという.この瞬間,南極点一番乗りを目指す人類史上最も過酷なレースの火ぶたが切って降ろされたのである.
 アムンセン隊が目標を南極点に変更したという電文はスコット隊がオーストラリアのメルボルンに寄港した際に受け取り,一行は大きな衝撃を受けることになる.相手は北西航路を制覇したアムンセンなのだから!
 南極上陸の基地となるロス海の棚氷付近に達したのは,テラノバ号(スコット隊)が1911年1月4日,フラム号(アムンセン隊)が同14日であった.2ヵ月あった差は10日に縮まっていた.
 アムンセンの『南極点』は,ユア号航海記同様,全編が詳細かつ注意深い記述と豊かな表現力で間然とする所がない.探検記ではあるが南極の氷河の特徴や時々の気象といった自然現象に対する洞察力とそれを科学的に記載するセンス等々,やはりただの探検家ではない.一方で,隊員・乗組員一人一人に注ぐまなざしの深さを感じさせる記述の読みごたえもまた格別である.ユア号航海記が第一級の民族誌なら,こちらは第一級の地球科学+人間記録と言ってよい.特筆すべきは,北西航路でエスキモーから学んだ様々な知恵が,この南極探検にもふんだんに活かされていることである.なかでも犬ぞり!南極点成功のカギはこれにあった.
 アムンセン隊は,南極の氷床上を順調に進み,1911年12月14日についに南極点に到達する.基地出発から57日目である.帰路もほぼ予定通りの行程で無事に基地に全員無事で帰還する.
 なお,ほとんど時を同じくして(1910年11月末),白瀬 矗(のぶ)率いる日本の南極探検隊が,海南丸という小さな船を繰って東京は芝浦港を後にし,翌1912年1月16日にはやり同じロス海に到達していた.ここで,白瀬隊は南極点から帰還したアムンセンとも対面してお互いの船へ行き来している.本書にはその時の様子も写真とともに描かれている.
 白瀬 矗の南極探検については自身の書がある.白瀬の豪快にして剛毅な人柄がそのまま文章になったような探検記で,面白いことにかけては他の書物に全く劣るものではない.
・白瀬 矗(2011)『南極大陸に立つ―私の南極探検記―』毎日ワンズ.297ページ.
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『世界最悪の旅』

A.チェリー=ガラード 教育社 1986

『アムンセンとスコット : 南極点への到達に賭ける』

本多勝一 教育社 1986
 『世界最悪の旅』は,上述したスコット率いる南極探検隊に加わったチェリー・ガラードによるものである.スコット本人による長大な行動記録は本国イギリスでは刊行されているというが日本では訳されていない.『世界最悪の旅』の加納一郎氏による完訳本は終戦直前の1944年に出版されたという.それに若干の補訂を加えたものが1986年に出版された本書である.
 ところで,本書は全19章(これに序章がつく)からなるが,「世界最悪の旅」というのは,この中の第7章「冬季ソリ旅行」に当たるものである.この旅行は南極点に向かう前哨戦的な意味合いをもつが,大きな目的は皇帝ペンギンの科学的調査であり,著者のガラードを含め3人で往復約240kmを5週間かけて行ったものである.この真冬の極寒暗黒の中での調査旅行の艱難辛苦の記述に“世界最悪の旅”(The Worst Journey in the World)という表現が出てくる.それが本書のタイトルとなっている. 
 7章以外の18章では,南極点に向けての準備,隊員の様子,食料,連れていった馬・犬への愛憎等に至るまでの事細かな描写,そして極点に向けての行進とその途上で起こる様々な出来事,なかでも凍傷・壊血病などの致命傷等,死の淵で悪戦苦闘する隊員たちの夢と希望,絶望が克明に描かれる.
 さて,1912年1月17日,基地出発から78日目にしてスコット隊長以下5人の隊員はついに南極点にたどり着く.しかし,無情にもそこには約一月前(1911年12月14日)に到達したノルウェーの国旗がはためくアムンセン隊のテントが張られていたのであった.絶望の中で帰途につく一行を待ち受けたのは,苛烈極まりない南極の自然である.隊員のエバンスの死に続き,足の凍傷悪化で歩けなくなったオーツの自殺,そして運命の3月19日,食料も尽きたテントの中でウィルソン,続いてバワーズが相次いで力尽き,最後に隊長のスコットが息を引き取る.スコットは死の直前に自身の日記を,続いてウィルソン夫人,ボワーズの母,バリ卿に遺書を,そして最後に公衆へ向けてメッセージを書き残している.とても死を目前にした人間が書いたものとは思えない冷静さに満ちた感動的なものである.先に逝った二人の同僚の遺体の側で,しかも硬く凍った手袋と凍傷にやられて自由が効かない手で書いたにも関わらず,その筆跡のしっかりとしていることは驚嘆するしかない.
 それにしても,この3人が息絶えたのは,食料のデポ地点まであと18kmの地点である.片道全行程1400kmのうちのたった18㎞である.こうして南極点からの帰路,5人の隊員は全員死亡する.
 一人の死者も出さずに完全勝利に終わったアムンセン隊とのまさに正反対とも言うべき結果である.
 アムンセンの『南極点』とガラードの『世界最悪の旅』を読んで感じるのは,北西航路におけるアムンセン隊とフランクリン隊との類似性である.スコットのイギリス隊は60年の時を経てなお同じような過ちを犯しているのではないかと思えて仕方ない.気になる人はぜひ二つの著作を読み比べてみることをお勧めする.
 なお,このアムンセンとスコットの壮絶なドラマを同時並行的に比較して論じた素晴らしい著作がある.上記二つの著作は大部すぎて無理だという人にはうってつけである.
 ・本田勝一(1986)『アムンセンとスコット―南極点への到達に賭ける―』教育社,308ページ.
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『Vaughan Williams: Sinfonia Antartica(Symphony No.7)』(CD)

Vaughan Williams ワーナーミュージック・ジャパン 1996
  スコットの南極探検隊の悲劇は1948年に映画「南極のスコット」として上映されている.この音楽を担当したのがイギリスの作曲家ヴォーン・ウィリアムス(1872~1958年)だったが,後に作曲者自身の手で5楽章の交響曲として再編成されたものである.全体で45分ほど.南極の極限的な自然とそれに立ち向かう人間の意志を描いた音楽である.
 ヴォーン・ウィリアムスはもちろん南極に行ったことはないのだが,スコットの残した膨大な手記や写真を見ることでインスピレーションを得たのであろう.1楽章の冒頭から南極の果てしなく広がる氷原を彷彿とさせ雰囲気が満ちる.Landscapeと題された第3楽章では,すべてを拒むような景観が描写されるが,最後にオルガンが壮麗に響くことで5人の死と救済が暗示される.最後の5楽章(エピローグ)は,成し遂げられはしなかったものの5人の決然たる意志を描いたように聴こえる音楽.終結部はウィンドマシーンによる黄泉からの風が静かにサ~ッと吹いてすべては静寂に帰す.
 CDは様々出ているが,ここでは私が好んで聴く上記のものを選んだ.真夏の暑い夜にエアコンをかけずに聴いてみなはれ.
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『極地に消えた人々 : 北極探検記』

ワシーリー・パセツキー 白水社 2002
 東京はお茶の水の今はなき茗渓堂で見つけて,全身にザワッとした感覚を覚えながら買った本(だった).原著は『謎を解いた発見』という書名で1964年にモスクワで刊行された.原著の書名はなんてことないのだが,訳本の命名センスは抜群だと思う.この本では7人の北極探検家が取り上げられているが,なかには日本であまり名前の知られていないロシアの探検家も含まれている.  
その7人全員が死亡した訳ではないのだが,実際にはこの種の探検は多くの乗組員によって構成され,場合によってはその人たち(の多く)が命を落としてしまうという点を鑑みれば『極地に消えた人々』という書名は,原著よりむしろ的を射ているとも言える.
 本書を要約すれば,北極海に存在する(はず)の未知の島の発見あるいは未知のルートの発見のために過酷な極地の自然に挑む探検家の有様を,一人の人物(隊長)を中心としつつそれを取りまく時代背景や社会といった事柄にも言及しながら展開していく.短編集ではあるが中身は濃く読み応え十分である.全部読もうとすると,探検物初心者には相当ヘビーなので,まずはどこか一編読んでみることをお勧めする.例えば第1章「一枚の地図の謎―ベーリングの最期―」あたりはどうだろう.ベーリングとは誰でも知っているベーリング海峡のベーリングである.本書はロシア人の書いたこの手の書物の日本語訳はあまりないことを考えると貴重なものではある.
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『25人の極地探検家 : 未踏への誘惑』

加納一郎 朝日新聞社 1992
 上述の『極北:フラム号北極漂流記』『世界最悪の旅』の訳者でもある,加納一郎氏は,現北海道大学農学部を卒業後,北海道庁に勤務,のちに朝日新聞社に転じるが,結核を患って退職.その後執筆活動に入り,極地探検に関する著作や翻訳を数多く手掛けた.また,林学・林業に関する一連の著作は,戦後日本の林業分野での最大の貢献として今も評価が高い.
 本書は,極地の探検家として著名な25人の生涯と業績についての概説であるが,極地探検に関心をもつ者なら誰もが読んでいると言ってよい名著である.初版は1956年に刊行されている.その後1986年に加納一郎著作集第1巻『極地の探検』に所収された.紹介するのは1992年に朝日文庫から出版されたものである.著作集に所収された地図がすべて省略されてしまっているのは残念だが,文章はほぼそのままなので,加納氏の名文を味わいながら極地探検に思いを馳せることができる.
 地球上に未知・未踏の領域がまだ多くあった時代に危険を顧みず踏み込んでいった探検家たち.その生き様を知ることは決して無駄ではありません.ぜひ一読をお勧めします!
[OPAC]
※2024年度の推薦本は図書館内のトピックコーナーに配架されています。(一部購入できないものを除く)