学生に薦める本 2019年版

越智 敏夫

 予備校文化、5点。僕が高校時代に遊び呆け、すべての大学入試に失敗して浪人した1980年代あたまと比べて、18歳人口が激減している現在の予備校がどうなっているのか、実はよく知らない。大学教員としてそれは問題かもしれない。しかし世間の皆さんもおそらくはあまり知らないだろうし、そもそも関心さえ持ってないだろう。あの時空間は、月並みな言い方で申し訳ないが、外部から、あるいは経験してない人からは想像さえしにくいものだ。それも当然である。だが制度としての予備校の特質はここにある。行ってない人にはどうでもいいけれど、通過した者にとっては忘れたいけれど忘れがたい経験。だからこそ重要なのである。浪人を差別する愚者は世界を理解できない。蔑視された者こそ賢者である。かつて「予備校の授業は大学より面白い」と言われた時代のおはなしであります。

『何でも見てやろう』

小田実著 講談社文庫 1979年(初出単行本1961年)
 浪人生活が確定し、入学する(というのも変な表現ですが)予備校を決めるとき、駿台か代々木ゼミかということになった。なんと高校に双方の予備校からの推薦枠があったのである。ただ愛媛の松山が実家だったので両方とも入寮が前提である。そのとき、代ゼミで一年先に浪人していた高校の先輩が「代ゼミの寮長は小田実(おだまこと、みのると読まないように。1932ー2007)だ」と自慢げに言った。それを聞いて私は迷わず駿台に行くことにした……というのは一部嘘ありですが、そういう経緯もあって、私にとって小田は「ベトナムに平和を!市民連合:ベ平連」代表の文化人というよりも、予備校の寮長さんという印象が強い。またこの本は自分が住んでいた駿台中山学生寮の浪人生の多くも読んでいた印象がある。それもわからんでもない。
 でもなんだかんだいって、本書は面白い。社会、個人ともに自意識が肥大化した敗戦国日本のエリートが海外をうろうろするだけの話にも見える。しかしそれはおおげさにいえば、戦後日本における「若者文化」の栄光と悲惨の共存でもある。その差異、境界を読み取ってもらいたい。
 ちなみに、この小田実をべ平連代表にリクルートした人間に、自分の浪人生活終了後、大学に入ってから政治学を教わるようになるとは、人生、何があるかわからんものです。
[OPAC]

『英文読解のナビゲーター』

奥井潔著 研究社出版 1997年
 ということで駿台であります。昨年の当コーナーでも書いたように、駿台は「予備校」ではなく「予備学校」と自称する。また教員に「先生」ではなく「師」という敬称をつける。変。なんざんしょ。でもそれはそれで面白い気もする。しょせん予備校だから。義塾(って何?)を自称する慶應大学がいまだに教員に「君」という敬称をつけて休講通知をしながら、どの教員も君づけで学生に呼ばせてないという偽善に比べれば、良き哉。
 その予備校でもっとも驚愕した授業がこの奥井(あえて敬称略)の授業だった。使用していたのはおそらくは50ページもない薄い教科書で、こんなぺらぺらの本で一年間、何を講義するんだろうと思った。これに限らず駿台で使用する教科書はみなえらく薄い。ともあれ、その緑色の表紙には CHOICE EXERCISE と書かれていて、回顧的ブログなどでは「チョイス」と呼ばれているものもあるが、少なくとも僕らはそんな呼称は使ってない。当時はみんな「奥井の英解」と呼んでいたような気がする。
 そのぺらぺらの教科書には毎回、見開きに200単語ぐらいの短文と基本文型が少し載っているだけだったように思う。それらの短文がS・モームやT・S・エリオットのものだと知ったのは大学に入ってからのことだった。授業では奥井がそれらを訳すだけなのだが、その解釈、説明の面白さに学生たちはイチコロ(死語?)だった。人生訓を語っているようで、それとも違う。今となっては文章を読む面白さを伝えようとしていたのではないかと思う。その授業内容の一部を活字に起こしたのが本書。
 この1924年、台湾生まれの英語教師は学徒出陣の世代であり、復員(これも死語?)後、中野好夫(1903-1985)に英文学を教わっている。ということは斎藤勇(1887-1982)の孫弟子ということでもある。2000年没。こうした経歴から生まれる教養主義、啓蒙主義は本書においては「西欧文明の精髄をなす理性的論理的な思考と表現を、日本人が日本語で行えるように、青少年を訓練することが、英語を学習する大切な目的のひとつ」とマジで表現されている。この表現に触れてゲッと思うか、足元をすくわれるか。どちらにしても、まずは読んでみてください。
 ちなみに当時の駿台英語のもう一人の「師」である伊藤和夫(1927-1997)の「構文主義」には結局、最後までなじめなかった。自分で言うのもなんですが、さもありなん、であります。
[OPAC]

『近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻』

山本義隆著 岩波新書 2018年
 代ゼミの寮長を小田実がやっていたというのは先に書いたが、東京大学全共闘議長だった山本義隆が駿台で物理を教えているというのも噂には聞いていた。また、京都の駿台では大阪市立大学全共闘議長だった表三郎が英語を教えていて、授業がえらく面白いらしいという。ただ、山本は自分よりはるかに優秀な東大理系コースなどを教えていたらしいので彼の授業は聞いたこともない。
 しかし当時でも表や山本の名は、日本大学全共闘議長だった秋田明大(日大でも名前は明大:笑)らとともに漠然とした反体制知識人のイメージを当時の自分には投げかけていたのであって、そういう人たちを予備校は雇うのだなあ……と思うことによって、世の中の仕組みの一端を知ったような気になったのも確かである。
 正直いって山本義隆本人の文章を初めて読んだのは『磁力と重力の発見』三部作(みすず書房、2003年)であって、それはそれでびっくりしたものである。しかしその山本の著書としては本書のほうが読みやすいし、内容も同時代的な重要性をもっている。自身の過去を語った『私の1960年代』(週刊金曜日、2015年)もあるが、あまり好きな内容ではないので、やはりこちらを薦める。
 ちなみに自分が大学院生のころ、アルバイトとして「母校」駿台の医学部系小論文の出題、添削、採点を手伝うようになった。そのときの「元締め」が東大助手共闘の最首悟さんだったというのはまた別のおはなしであります。
[OPAC]

『1974年のサマークリスマス――林美雄とパックインミュージックの時代』

柳澤健著 集英社 2016年
 御茶ノ水の駿台へは千葉の西船橋にある寮から総武線で通っていた。寮は4人部屋ではあったものの、なんといっても実家を出たということが大きい。大学には落ちたとはいえ、このときの解放感も忘れがたい。どこに遊びに行こうが、何時に起きようが誰も文句も言わない。ラジオの深夜放送も聞き放題である。特に実家の松山ではノイズが多かったTBSラジオもクリアに聞ける。野沢那智と白石冬美の「パックインミュージック」、いわゆる「なっちゃこパック」などはほぼすべて聞いていた。
 ある日、いつもと同じようにそのTBSラジオを聴こうとしたら、いつもとは違う雰囲気の番組が流れている。それは1960年6月15日に国会前で起こったことを木下順二がドラマにした「雨と血と花と」の20年ぶりの再放送だった。初回の放送は1960年7月19日のことである。
 オリジナルのドラマを再放送したあとも番組はつづき、山中恒や戸井十月たちが深夜の国会前からの中継で、安保闘争や殺された樺美智子さんなどについて語っていた。おおげさかもしれないが、この番組を聴いてなかったら、今、こうやって政治学者のはしくれにはなってないと思う。それくらいインパクトの強い番組だった。翌日、予備校で友達と感想を言い合ったのもなつかしい。みんな聞いてびっくりしていたのだろう。
 この木下の作品の再放送を決定し、国会前の座談会を企画し、全体の進行役を務めていたのがTBSアナウンサーの林美雄(1943-2002)である。その伝記が本書。もちろんタイトルどおり、ある時代を語ってはいるのだけれど、個人的には予備校の寮で聞いていたラジオ(愛機、SONY STUDIO-1980)ばかりを思い出す。『完本 1976年のアントニオ猪木』(文春文庫、2009年)などの佳作を多く書いている柳澤健、ある時代を描くのが本当にうまい。
 ちなみに、ゆえあって自分も新潟県域のラジオ番組で毎週ほろほろ話すようになってから幾星霜。けれど林美雄のような存在はいまだに高く仰ぎ見る対象であります。あたりまえですけど。
[OPAC]

『赤頭巾ちゃん気をつけて』

庄司薫著 中公文庫 2002年(初出単行本1969年)
 本書のなかで語られているものを予備校文化と呼んでいいのかどうか、わからない。しかしここで語られているものすべての宙ぶらりんな感じはかなり予備校的な気もする。
 本作は森谷司郎によって映画化され、単行本刊行の一年後には公開されている。もちろんそれを初めて見たのは自分が大学生になってからである。それがあまりにつまらなかったので、いくらなんでも小説のほうはそこまでひどくないだろうと思い、原作を読んでみた。面白いとは思ったが、全体に漂う不快感も否定しがたい。
 その不快感の理由を考えると、主人公、薫君の使う言葉のあまりの不気味さも大きいとは思うが、東京在住の人間以外を読者としてまったく想定していないという傲岸さもあるだろう。また、東大法学部で丸山眞男ゼミに所属した日本のトップエリート予備軍が、高校のころに悩んだ過去があったふりをするという虚構そのものも不快である。
 しかし何よりも大きいのは「ものを決めない人々」の不快さではないかと思う。ものごとの先のばしが生じさせる不幸。この不幸感は浪人した人はわかるのではないか。予備校にいるあいだは、一応「大学に合格します」という最大の目的が自動的に提供されるわけで、「人生いかに生きるべきか」といった決断はつねに先のばしされる。安楽による地獄。丸山の弟子、藤田省三みたいだ。
 ちなみに本作はサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の盗作ではないかという指摘もある。しかしそれはあまりにサリンジャーに失礼です。
 ちなみに(再)、映画版を見ていていちばん驚いたのは劇中歌としてピンキーとキラーズ(知ってますか、みなさん?)の「恋の季節」が突然流れたことだった。嗚呼、予備校文化。本の推薦文を書いているはずだったのに(嘆)。
[OPAC]